時
マストリヒト行きの電車は都合で時間がかかることもあるが、天気の良い中人の少ない空間で外を眺めているのは気分が良いものだ。
こんな僻地までわざわざレッスンしに出かけるのもこういった快があるからに他ならない。
快、といえば愉快というのはまさに内側からの表情以外の何者でもない。
いくら「楽しいでしょう、楽しいはず」と他人、あるいは本人が思っても絶対に強要できない。
それに対して外圧、外からのプレッシヤー、あるいはそのほんわかした気持ちを「守ろうとする」砦としての硬さがあるかもしれない。
男と女で言えば前者が女性、後者が男性?
だったらかっこいいけど!(笑)
美しさを感じる事、それは人の心が描き出す感情で動物にはない。動物・・・親愛なる感情を抱くペットにしても喜び、不快、不安、怒りといった感情は持っているだろうが「美」例えば日の光に輝く霜柱に感動はしない。
ではその美しさを感じることはどこから来るのだろうか?
知識?
教養?
マストリヒトの朝早くホテルを出て駅まで歩く。ホテル近くのごく普通の家の外壁に1771年と書かれている。くっついている隣は1691年?凄いなぁ〜流石に地震もない国ではこのように石の建物は保存され人々が住み続けているのだ・・・
といったことに感動するのはそれなりの知識があるからだ。
クレモナの天井のフレスコ画がまだ日常に生きているのも凄い・・
と車窓を通して羊が草をはぐんでいる・・・丸々としたお尻!もうすぐ復活祭になるがなぜ「子羊」生贄の慣習がまだ続いているのか?それにしても美味しそうだ・・と昔言って友達をビビらせたことがある。
霜柱といえば子供時代は冬当たり前のようにあった。周りに土が多かった。
その中でソックスにスカートで縄跳びをしていたのが私の小学生時代なのだが寒くなかったのだろうか・・・
今では厚手の靴下にズボンに毛皮とまさにロシアのおばさん風体なのに例えば階段でつまづいた際についた足の傷は跡がのこる。
年だ!
マース川沿いを行く電車はヴィゼ駅着。普段はこの風景を楽しむがふと川の水の量が多いことに気づいた。
そういえば昨夏の洪水、増水で大被害にあった地域でもある。
きれいな長閑な風景は一瞬にして汚い水の災害となる。
自分が中心、
またふと思った。この間パリ行きの前にも活元運動の後そう感じた。大したことではない。肝が座るというか心地よくなって空ゆく雲さえも楽しい。
突然こんな「一瞬」も、あるいはこの先この暖かい日の光の恩恵がギラギラの酷暑になる夏も、要するに「時」が全てを支配しているのだ、と閃いた。
よく説明できないけれど、空間、オブジェ、そして「時」と来るとこれが全てを超越してるのかもしれない。
「だから時の芸術である音楽、そして音楽家に全ての芸術家は憧れる」
などとキザなことを言うつもりは全くなく、私たちの仕事はその時をいかに「止めて」そこに全てを挿入して、という作業は絵画、あるいは文章でそれを表す職業と何ら変わりはない。唯一の違いは演奏会で「弾き直し」はできないという事だ。
生徒にもよく言う「2度目でできてどうするの?」
旅とは良いものだ。
あんなこんな、色々なことが浮かんでは消え、そしてそれを追うこともなく時が過ぎていく。
そして目的地に着く。
また違う「時」が待っている。
2022年2月12日 ブリュッセル