娘道子の初の個展が桜満開、春爛漫のハッセルト日本庭園で始まった。今年は桜の開花が早かったので従来明日オープンを1週間早め先週日曜日に一般公開日を一日設けたのだ。全く桜は予想がつかない。
鳥居をくぐって駐車場・・・また鳥居をくぐると庭園内に入る。
日本そのものの美しい公園が現れる!それにお天気と桜でなんという人の多さだろうか。まるで新宿御苑のようだ!
押し合いへし合い、袖触れ合うも何とかの縁?とばかりの混雑の中小道を歩く。
小川が流れ石橋が架かり、あらゆるところに桜が咲いている。こぶしの花も満開だ。池には鯉。池の向こうには日本家屋があり、あれ?よく見ると道子の作品ではないか!外壁に絵が描いてある。かなり大胆な色使いで真ん中に大きな丸。アトリエで見たときは一体これはどうなるのだろう?と思って心配したのだが確かに遠景、池の向こうの外壁にはちょうど良い感じだ。他の角度からは池の水が絵に反映して揺らぐ~雨でもいいかもしれない・・・若い時から渋い色ばかり描いてきた彼女の初めての明るさ、大胆な色使いに嬉しくなった。
「日」という文字を1メートルほどの金属で立体的に組み合わせ、床に置く。下に一文字、また縦中央にも一文字立てる。床の「日」の上にガラスを置き外の景色を反映させたオブジェがあった。「日」という漢字と「春」という漢字の説明がしてある。春とは日の光が草を押し上げてエネルギーを与える、という字の成り立ちだそうだ。
「春光90日、90 days of light」個展のタイトルだ。
6月までの展示だ。
ちょうど今そのオブジェには満開の桜が映っていた。
[憩い庵]と名付けられた家屋にはいる。その中の襖絵も彼女が描いた油絵だ。左から右へ春のパステルカラーがだんだん夏の色になっていく全長20メートルの8枚の襖絵が中に4枚、外に4枚。大作だ。憩い庵入口のお休み処では昨年ラカンブル美術大学院卒業制作の日本とベルギー同時進行の空の様子がスクリーンに映し出されている。そしておばあちゃん、私の母との電話という声を通じて語られる。こちら朝やけ、あちら夕焼け、だんだん暗くなり、片方明るくなり・・・
あそこで母の声を聴いた私は立っていられなくなった。
外に出ると白い石を敷き詰め、水落しのある本格的日本の建物だ。小高い丘に上がると茶室がある。
ここで彼女は炉の下から「春光」春の光の演出をした。プレクシーグラスを張り詰めそれに赤、オレンジ、ピンクととてもきれいな色だ。
控室では1200度で焼いた銀杏の葉っぱの陶器が床にちりばめられている。真っ白な薄い陶器の中には壊れているものもある。そして金継ぎをしてある
。
良くここまで庭園一杯使っての個展をさせてくださったものだとハッセルト市に感謝するばかりだ!
道子の第一歩。ブラボー!!
2019年3月31日ブリュッセルにて
ハッセルトの日本庭園、春光その一
Category 2019-2022
RELATED STORIES
Even Brahms and Mozart transcribed what was in their mind.We see and hear those transcriptions...
This was the 10th edition of Fukko Concert 2022. Musicians were more than happy to...
Category 2019-2022
身体が整う 今朝は背中なんか忘れてシャキッと起きた。もう背中を下にするのに飽きたので飛び起きた! 日本行きが無くなり、なんとも異常気象14度のブリュッセルでの年越し。昨日は久々に自分で車を運転してナビを聞きながら友達の家に行った。グリンベルゲン、ビールで有名だ。普段は買い物ぐらい、あとは全て夫の横なのでちょっとドキドキ・・だいたいナビの言う通りにしないで自分で勝手に右まがっちゃって一本早すぎて・・・みたいなことが多かったのだが、学生や子供たちが全く見知らぬ土地、例えば彼らにとって東京駅・・でもナビできちんとホテルにたどり着く姿を見て「すごいなあ〜いつかはやってみたい」と思っていた。昔はサッカーのアウェーの試合に子供達を連れて行くのに連なって運転して行くのがいつもおいていかれ、その上ナビの読み方もあまりわからず、泣きたいのを我慢して運転したものだが・・ そこまで大袈裟ではないにしろ、ちょっとの冒険・・・特に演奏会という大冒険がない今、この緊張感は大事なことかもしれない。特に私にとっては! 旧友との話も進み、なんとなく清々しい気分で自宅に戻り、もう一つのアポは子供が頭ぶつけた、で来なくなり。全くもってそんな子育て時代を忘れてしまった!周囲にはさぞかしうるさい親だったと思うが今は自分がその「周囲」になるとほとんど関心がない。 堀田善衛の「方丈記私記」を読んでいる。面白い!鴨長明という人が自分の足で歩いて火事や突風の様子を描く有様。大飢饉を描く。死者4万人まで数えて一人一人の額に「あ」の文字を指でなぞったというお坊さん・・・その有様を今度は堀田さんが戦争時代の体験、自分に重ねて記述している。東京大空襲・・・4万人を2ヶ月かけて数えて歩くという日常の異常さとそのお坊さんの行為が心に響く。またその飢饉の時代が歴史で言えば鎌倉で頼朝、義経、あるいは源平合戦の最中だったという・・・私が全く知らなかった「地」の話。庶民の話だ。数字の中には文字だけではない人の心が描かれていることの大切さ、リアリズムがある。 ブラームスのインテルメッツオもやっと118−1が聞こえてきた。なんかこの安らかなEs Durは今までそぐわず、素通りしてた。 身体が整うと昨日は思ってもいなかったことが想像できる。頭より身体が知っているのかもしれない。 2022年1月3日 ブリュッセルにて
Category 2019-2022
時差と隔離 今日は妹の納骨だった。私の帰国に合わせて調整した師走の日だったが結局出席叶わず。妹のご主人とその妹夫婦、それに友人一人、葬儀社の内田さんもきてくれた。モーツアルトの埋葬を思わせるヨーロッパの暗い灰色の空に比べて雲一つない晴天の若葉町で、もも子は今父と母と共に眠っている。半分はご主人の家族の墓に入るそうだ。 昨日はブリュッセルの自宅に少しだけ持ってきた骨を眺めて。白い・・母のものと一緒にしようかと思ったけどやはりやめた。 時差はやってみないと絶対わからない。あの辛さ。多分肝臓だと思うのでだるさ、そして夜中の元気加減はなんとしても免れぬ。長旅のすぐあとはまず爆睡、そして興奮しているので数日は良い。だんだん無理をして起きる、仕事するなどで疲れが溜まってくる・・・1週間ほどした頃またど〜んと出る。ちょこちょこ、とにかく眠たい時に寝るしかない。40年やっていても慣れるということはなく、年も重ねてくると回復には時間がかかる。2−3週間した頃「あれ?なんだっけ?」とけろりと今度は夜普通に眠たくなる。 コロナ騒ぎで隔離が始まった。2週間自宅待機。時差調整にはもってこいの時間だ。 1年ほど前「指定された場所で待機」が始まった。指定された場所とは要するにホテルなのだがこれが辛い。最初は成田のマロウド、なんとツインの部屋を与えられた!せっかく持ってきたフルーツはかわいい検知犬に全て没収されてしまった〜3食冷や飯は辛い。その上毎朝一斉に館内放送で「今日退所される方の検査のため〜〜」朝6時だ。それから7時に「朝食の準備をします。外に出ないでください」外と言ってもドアを開けることができるのはこの食事を取るときのみ。この放送が3回ある。到着日の次の日から3日間だった。2日目の夜ぐらいからキツくなる。2度目は妹が心肺停止で急ぎ戻った。今年6月の最初の事だ。それを空港検察官に言ったところで変わるわけでもない。「何かあったらまたホテルで電話してください」という「何かあるとは?」「お葬式とか・・」「そうなる前に会えないのですか??」悶々としながら今度は潮見のアパホテルのシングル。いやあ〜狭い。ご飯はますます悪化、味噌汁、スープ類もサラダもなかった・・・3日間の隔離が終わり病院に駆けつけ・・・毎日数回かかってくる電話での位置確認ヴィデオ。出られなくてかけ直すことはできない。いつも罪悪感に襲われる。その後つてを頼り「危篤状態の妹を見舞うのは不要不急ではなく最重要緊急です」と保健所まで電話したが何度か担当が変わった後「いずれにせよ法的能力はありませんから。公共機関だけ使わないように」とのお達しでその後は堂々と病院がよいをした。3度目はまた成田で東横イン「大きめの部屋にしてください」「なぜですか?」「荷物が多いのとヴァイオリン練習します」ついた場所は今までで一番狭かった・・・苦情を言えばいい?13時間の飛行機の旅、そのあとアプリ等を入れる、コロナ検査結果待ち時間2−3時間、この頃の水際は8時間とも聞く。「240番、243番」と呼ばれる待機時間の中で「241番を持つ私は陽性なのか?」とストレスが増す。ようやく待機場所ゲートから出て、そのあとプラスチックに覆われ中からも外からも見えないバスでホテルまで移動。私たちは囚人か??そこで部屋を割り振りされるわけだが、もう精魂尽き果てているのだ。交渉どころではなく一刻も早く部屋で休みたい・・・そんな状態で文句を言う人はいるのだろうか?このホテルではちょっとでもドアを開けるとアラームが鳴った。刑務所をもじり我々は「 アパ刑」と呼んでいる。口内炎になり、運動不足をなんとか活元運動で飛ばし、ヴァイオリン?弾けないなあ〜 その後羽が生えたように自宅に戻る。これも家族が迎えに来ない場合はハイヤーを雇うしかない。 毎日スマホに数回画像を送る、位置確認?これを計14日間やって外に出るときの方が怖い。私たちはP C R検査3度陰性なのだが世の中の方々は??と思ってしまう。 とさてさて今思い出しつつ書いているが、これもまた忘れてしまう出来事なのだ。 人間の能力の一つなのだろう。もしお産の痛さ、辛さを一生覚えているならこの世に兄弟姉妹など生まれるわけがない! その妹を亡くした・・半年以上経って納骨の日、一人上記のような環境が3日から6日になったら耐えられぬ、と今回の帰国断念を少々悔いている。少々とは私の心の問題というよりは周囲の方々への思いかもしれない。それが日本の習性だ。 その場にいない、住んでいない事。今まで40年私自身がたくさん動くことでどの土地にも住んでいるような錯覚に陥っていた自分がいる。それをあたたかく見守ってくれている家族がいる。...
Category 2019-2022
妹,もも子の死 5月31日の朝の事だった。いつもラインでおしゃべりしている妹から着信通信があった。あれ?何かあったかな?と思いつつ電話をすると旦那、金子真一さん、通称真ちゃんが電話に出た。なんだか嫌な予感がする。また妹は腰が痛くなって動けない、とかお腹が痛くて夜中大変だったとか?話を聞くうちに「心肺停止」という言葉が飛び出した。あまりの出来事によく理解できない。要するに呼吸困難になり、救急車を呼んだが来た時はすでに心肺停止、その後蘇生していま近くの大学病院のI C Uに入っているというではないか!昏睡状態で意識はなく、その後彼女の意識は戻ることはなかった。 その日から3日間ブリュッセル音楽院の卒業試験があり、最初の日に生徒がたくさん弾く。次の日からは私の弟子は出ないので悪いけど緊急で日本に帰ることにする。とはいうもののそう簡単には行かないご時世だ。P C R検査、飛行機・・・そして例の隔離がある。この際つてを通して働きかけてもらう。昨年7月母の危篤のおりも話をしてもらったが結局検査結果出る前は動けず死に目には会えなかった。今年は? 悶々としながらこのような例外も認められない(後述、時差と隔離)中3日間の待機場所での隔離、アパ刑を終えて病院に駆けつけるとまるで眠っているだけの妹の姿があった。最初脳幹が生きている見込みがあったが結局ダメで全脳死だという医者の説明を聞く。いったいなんのこと言っているんだ??気管切開をして酸素を送るシステム、その手術後だという・・・それ以来、不要不急ならぬ最重要緊急の事態なので隔離中だったが毎日病院通いが始まった。救急で状態が危ないということで一日15分の面会を二人まで許された事は他の病院と比べてもマシだったという事。毎日寝ているもも子に愉気をする。これはなんといっても真ちゃんの専門範囲だから私は邪魔しないように、でもなんとかコミュニュケーションを取ろうと頑張った。 だんだん現実が身に染みてくる。もしこのまま生きていても目を覚ますことはあり得ない。友人たちが皆祈ってくれた。象さんに守られているというので象のぬいぐるみに祈ってくれた。 症状が安定したとは要するに数値が安定した事で転院となった。今度は少し遠い。できたばかりの綺麗な病院で、ロビーはホテルかと見紛うばかりに蘭の鉢で飾られていた。到着した日、やはり負担が多かったのだろう・・・妹はひどい顔してた。それに私たちは防護服にマスクにシールド。ここまではなんとか我慢できてもその上に手袋!息ができない!私も真ちゃんもヘトヘトだ・・ そのうちに子供たちもやってきた。本来なら夏休みに来るはずだったのだがコロナ騒ぎで隔離期間2週間では遊ぶこともできない。「来なくていいよ。嫌な思いするだけだから」と妹は言ってくれたが実は「会いたいなあ〜」と5月から言っていたのだ。かわいいかわいい姪っ子と甥っ子。生まれた時、いや、生まれる前からお世話になって「たんて、たんて」となついていた。私の演奏旅行の間も子供の世話で一緒にきてくれたり、または実家で母と一緒に見ていてくれたりした。だからこそできた事だ。左門は自宅出産だった。 の時お産婆さんと一緒に取り上げたのも彼女。最初から抱き方がちょっと違うと怒る左門に付き合って夜中に廊下を歩いてくれたのも彼女。道子のゴッドマザーでもある。しかし彼らも二十歳過ぎ、大学も終わる頃になれば自分の予定があり、その上コロナ騒ぎで母の葬儀にも来れず。結局2年近く会うことなく逝ってしまったわけだ。子供達の「待機場所」アパ刑はなんとツインの部屋にソファまで入ってる?中で踊って見せる彼らは久々の日本という事もあり嬉しそうだ。3日間が終わり、病院とも話がつき、「滞在中に一度だけ面会できます」とお許しが出た。早速向かう。自分の部屋から下ろされて面会場所のようなところでの対面が嫌だったのか?たんてもも子は変な顔をしていた。道子も左門も絶句・・・というより2人しか入れなかったので私たちは外で待機していた・・・泣いて出てきた彼らだが一様に「もう逝っていいよ。たんて、ありがとう」 今となってはいつ、何日に何が起こったのかは忘れてしまった。東京滞在、近くをうろうろしながら週二日の面会15分のための生活となった。それでも私は子供達との東京滞在が楽しくて、出かけた。民藝館、高尾山、演奏会が全て無くなりぽっかりあいた2ヶ月間はまるでもも子がくれた至福の夏休みのよう・・・ そして7月12日。母の1周忌が終わった2日後の夜中「容態が急変しました」との電話がかかり皆で出かけた。車中誰も何も話さない。病院に着くといつもの防護服、検査もなくす〜っと2階に行って・・・そこには管を抜かれた彼女がいた。すぐにもうダメだとわかった。 朝陽が昇る中彼女は若葉町に帰ってきた。飼い犬のムギがやってきてぺろぺろ舐める。「あそぼうよ!」とシーツをどかそうとする姿を見て真ちゃんも泣きくづれる。...
Category 2019-2022
偶然が重なり最後の時を迎えた母と死に目には会えなかったけれど、コロナ陰性の結果が出たのでお葬式まで自宅に引き取って過ごせた私。 今1週間経ち主のいなくなった部屋の片づけになかなか手をつけられない。 母はもう3年ほど前から施設に入っていた。最後まで本当に皆さんによくしていただいた。 看取りをするという事は相当腹くくってかからないとできない事だと今回感じた。 決して楽な時ばかりではない。でも延命治療も管もつけないというのは本人の意思でもあり、また私達の希望でもあった。 だんだん浅くなる呼吸、喉だけ、そしてあがっていく息を前にして「なんとかしてあげたい」と思うのは当たり前だ。 でも彼女はあの世への旅立ちのためにその時をすごしている。苦しいわけでもない。見ている方の覚悟が必要だ。 妹は母との約束どおり「最後までつきあうよ」を実行した。大役を果たした。 私が最後にあったのは2月22日、ブリュッセルに出かける前の日、いつもより軽い気持ちで「じゃあまたね」と。当初の予定では4月頃顔を見に来るつもりだった。遅くても6月にはコンサートもあるので来ると。それがこの事態だ。 それでも全てのコンサートがなくなり「今年は23年ぶりのヨーロッパの夏か!」とうれしいような、また挑戦のような面持ちでロックダウン時期を過ごした。母の事はなんとなく2の次になっていたかもしれない。 飛行機もなかなかない。行っても死に目には会えない、自主隔離期間で葬式にも出られないではどうする事もできないではないか! 「一人で看取るよ」という妹の決心を良い事にぐずぐずしているうちに時は経ち・・・・ ロックダウンのたまものの「オンライン」で母と会った。嬉しそうだった。 起きたらスタッフの方と「ハイタッチ!」したという話を聞いて矢も楯もたまらず・・と言っても数日かかったのだが、機上の人となった。アムステルダムまでは旦那が運転してくれた。空港はブリュッセルより普通で、オランダ人はあまりマスクもしていない。ロックダウンも余り厳密でなかったオランダだが統計的にはベルギーとあまり変わりない。ベルギーの死者数が多いと恐れられたがあれは施設の死者をすべてcovid19のせいで、と書かせたものによる。救急隊員は最初に身分証明書の提示を求め75歳以上だと運ばなかったという事実もある。残酷だ、と批判が出たことも間違いない。しかし施設にいた老人が誰も知らない病院で白い壁だけを見て亡くなっていくのとどちらが幸せか?を考えた時救急隊員の究極の判断も納得いくものがある。実際covid19で亡くなった方たちには子供も会えなかったのだから。 7月5日の段階で看取りとなった母の施設ではそれまで許されなかった家族訪問が許された。妹夫婦はなんとベランダから防護服を着て部屋にはいる。部屋の向こうにつながる台所、階段、共有スペースには出ない。なるほど!この施設「かしわ園」は2月末から厳戒態勢をしいてコロナどころかインフルエンザ感染もなかったという話だ。働くスタッフたちの日常も束縛するに違いないのだが皆喜々としてそして自然に尽くしている姿には感動した。母の性格をよくわかっている、だから「ハイタッチ」なんてやるのだ!...
Category 2019-2022
良く江藤先生は曲を造る時は詳細は細かく、遠くから見たときは西洋画のように遠近法を使ってあり一目見て「あ、きれいだな」というのが良い、と言われた。要するに手元の事は筆使いのごとく細かくひとつずつなのだが全体の把握をしてないとダメという事でもある。 久しぶりに日曜散歩した。ロシア、フィンランドの旅から帰りずっと教えていて今日はやっと休日、犬とふたり?の静かな空間で夕方思い立って森に行ってみる事にした。本当ならば犬を放して思う存分走らせてやりたいけど、私ではもし何かあった時追っかけられないというか犬は私の言う事を聞かないので断念。昔子供たちと毎日ピクニックに出かけたソルベー公園、森の入り口に行った。もう夕刻で残照が美しく風のない晩秋に見事に色づいた木々たちに迎えられた。黄色、オレンジ、しなだれる枝・・・昔とほぼ何も変わっていない。ここは大きな木の下で遊んだところ、ここはかけっこしたところ、上の散歩道を行くと遠くに八角形の屋根が見える、紅葉の中にあってその形が美しい、遠景にはさらにオレンジ色を増した森・・・・思わず足を止めて見とれた。完全な美だ。形、とはリズムのようだ。これがはっきりしっかりしている事がまず音楽の基本。 またまた歩いていく。昔道子の誕生会をやったところ。3歳だったかな、そのリンゴ果樹園をとおり今度は八角形の屋根の下に来た。反対側を見ると廃屋にはなったが形だけはとどめているお城が見える。これもまた美しい!詳細は見えないがその形の美しさは周りの風景に同化している。傾斜があるのでこのように景色が見え隠れする。マッシュルームの石の椅子、よく友達と子供たちと一緒に遊んだ。彼女はもういない・・・ 左門を抱っこして道子もおんぶしたという体力ある若き母親、私の登った坂。今日は犬がおともで適当にあっちこっちにおいをかぎに止まってくれるので息もきれない。 いつも言葉以前の時代との付き合いが好きなのかもしれない。子供たちが小さい時もここでは話しをするというよりは自然に親しむ、囲まれる、そんな時間を共有して帰ってきた。犬は何も言わずについてくる。それでも一人で歩くのとは大違いだ。 近い事、、、今現在の歩みと、遠景、昔の事を思い出すひと時、人生終わりに近づいて、とかキザな事は言わないけれど確かに回りの状況は変わってきている。 過去現在未来・・・全て含めた一瞬を絵に閉じ込めるような、そんなひとときだった。 2019年11月17日ブリュッセルにて
Category 2019-2022
最初に白樺の林を見たのは確か81年頃乗ったアエロフロート、モスクワ空港だったと思う。寒いところに来てしまった・・という感じ。そのころはまだまだソビエト連邦の鉄の壁でパスポートを取り上げられてホテルに鍵をかけられて一泊するという・・・ 早いとこ逃げるに限る、のような気持ちで飛行機に乗った。 モスクワ空港ではロシア製の食器を買ったりもした。今回その青色もまだあった。 チャイコフスキーのコンチェルトにもあまり縁がなかった私にとってロシア・・はどちらかと言えば遠い存在だった。70-80年代に多くの音楽家も亡命した。その中にはその後に親しくなった人もいる。ギドン、ミッシャ、ボリス・・・年々増えてくるロシアの友達、同僚に加え、気が付くと我がクラスにもサンクトペテルブルグ出身4代ヴァイオリニスト一家の生徒がいたりする。マストリヒトの生徒で仙台国際コンクールにも出場したグレゴリ・タダエフはオセット人、カフカース(コーカサス)の山が故郷だ。もう一人有名人がいる。ヴァレリー・ゲルギエフ。数年前に亡くなったイタリアのチェスキーナ洋子さんとは私もよく話をした。私の演奏会にもたくさん足を運んでくださった。ヴェニスのグランカナルにある邸宅に泊めていただいた事もある。彼女は晩年ゲルギエフの追っかけ?をやっていた。ある日ブリュッセルにゲルギエフのコンサートでやってきた。翌日ホテルに彼女を訪ねるとゲルギエフもいてなぜか一緒にお茶?途中チェスキーナさんは用事で出てしまい?楽譜を見たい様子だったゲルギエフの隣でし~んとしてお茶を飲んだ事がある。 ボリス・ベルキンとはここ数年だが本当に良い同僚で彼を聞きにサンクトペテルブルグまでやってきた。曲目はなんとブルッフのスコッチファンタジー!!私は父の影響で幼少時代からハイフェッツのレコードを擦り切れるほど聞き、のち練習し、録音もした曲でもある。ロンドンでの録音の際の楽譜が前回ハイフェッツが使ったものだったという背中がぞ~っとするような経験も持ついわば特別な存在の曲だ。そして敬愛する広上さんが指揮をするという。NHK交響楽団とのいきなりベートーベンコンチェルト共演、たくさん励まされ根っこが一緒の音楽つくりができたことか!また仙台国際のヴァイオリン部門を指揮していただいている。そんな偶然がなんと息子左門の23歳の誕生日の3日前にあるという。サンクトペテルブルグは彼の留学先のフィンランド・ラッペンランタから電車で3時間。こんな機会はないとオルガナイズしたのが今回の旅だ。 10月中日本なので9月中旬ビザの申請をする。我々で最後だというパスポートにスタンプのビザも2週間ほどで取れた。電子申請、電子ビザになったのは10月1日から。簡単になったようで例えば名前のスペルの点がないと飛行場で本国に追い返される?という今だに厳しい、きついロシアの国境コントロールだ。実際娘を訪ねてきた一家、おばあちゃんのミドルネームの最後の一字がなくてベルギーに送り返されたという話だ。 2004年私はアレクサンドロ・ドミトリーエフと共演した。サンクトペテルブルグ、ショスタコービッチホール。その時の空港からの印象は何とも汚く、まだまだ開発途上だったのだが今回はタクシーの運転手も英語を話す。街はあらゆる建物が立ち、西欧と変わらない。ホテルヨーロッパ・・・・ホールのすぐ隣にある古式ゆかしきホテルは昔の赴きのまま、たたずんでいた。細かいところにすぐ気づき、格式高く、居心地の良いホテル・・・広い部屋はエキストラベッドも気にならないほどだ。明日息子が来る。2か月振りに会う。 昔は「留学」と言えば何年も帰ってこられないものだった。今でも当時留学していた妹が別れの時ザルツブルグ空港で手を振っていた姿を思い出す。彼女は、いや用意をした家族我々も寒さも知らず、レインコートひとつで1月のザルツに飛んだのだ。79年の事だ。メールもなければファックスもない時代、送られてくる写真にやっと買ったというブーツの写真ばかりだったことも覚えている。彼女はそこでシャンドール・ヴェーグ先生に習い5年間住み着いた。おかげでドイツ語は完璧になった。今の留学生は何年いてもその国の言葉を話さないまま帰る例が多々あるが残念な事だ。グローバリゼーション?みなが英語を話す?しかしドイツに住めばドイツ語、フランスに住めばフランス語を極めてほしい。 妹、もも子が留学中日本に戻ったのは一度ぐらい?80年に私がエリザベートを取ったのでその後はよく行き来があり、そんな環境の中で私自身もヴェーグ先生のモーツアルト、バルトーク、バッハに出会い狂喜して学んだものだ。 さて2004年サンクトペテルブルグではモーツアルトの4番を弾いたのだがその時は会場中に散らばる髪の毛の色と顔つきの多様さにびっくりした事を覚えている。なんといってもロシアは広い!西から東までのあらゆる人種で構成されているのだ。雰囲気もなんとなく自由?圧倒された。...
Category 2019-2022
シルクロード、正倉院御物 東京での数少ないフリータイムの数時間が空いたので上野の国博に出かけた。 正倉院展をやっている。 シルクロード訪問を小学校時代の夢としていた私は正倉院こそシルクロードの終着点という言葉にときめいたものだ。 洋の東西をつなげる道があるなんて! そのころは映像も資料もあまりなかったのでヘドウィン「さまよえる湖」などを読んで想像をたくましくしたものだ。 2011年に家族で唯一のバケーション、トルコに行った折りの事はゆずノートにも詳しく描いた。カッパドキア・・などという夢のまた夢の場所を訪れる事が出来、隊商宿を復元したところ、イスラムとキリスト教の共存・・など興奮して歩いた。ギリシャ文明からまた目は東へ向いた。そのあとはブリュッセルに帰りまた一杯調べた。地図を追い、次の東トルコからの旅を計画・・・残念な事にその後は政情も怪しくなり時間もなくなり旅には出ていないが、興味はつきない。イスファハン、桜蘭、敦煌、北方ステップ路にはキルギスの杏の里もあるという。顔つきもまさに東西を混ぜ合わせたものだ。昨今研究も進み、ヨーヨーマのシルクロードアンサンブルでは音の世界も味わう事が出来る。 正倉院御物は聖武天皇を失った光明皇后の哀しみから、祈りを込めて作られたものだ。それまでバラバラだった技術がものすごい数の詳細目録とともに奉じられた。 これらの御物を奉ずる事でどうか迷うことなく阿弥陀の世界へ導かれますように・・という彼女の祈りは仏教だが、仏教が日本に入ってきてからそれほど時間が経ったわけでもないだろう、と自問する。大仏ができたのが確か聖武天皇の時? キリスト教から比べると随分早い時間で日本へなじんでいった。 今でもヨーロッパの動きの遅さと日本の傾倒の速さは対をなすが実は根底に宗教の基礎概念があるのではないだろうか?今ヨーロッパが対面している危機とはまさにキリスト教の「当たり前」が壊れている事にあると言ってもおかしくない。 しかしながらシルクロードの昔はアラブの壁に十字架が使われていたりしたのだ!...