Category 2019-2022

妹,もも子の死


5月31日の朝の事だった。いつもラインでおしゃべりしている妹から着信通信があった
。あれ?何かあったかな?と思いつつ電話をすると旦那、金子真一さん、通称真ちゃんが
電話に出た。なんだか嫌な予感がする。また妹は腰が痛くなって動けない、とかお腹が痛
くて夜中大変だったとか?
話を聞くうちに「心肺停止」という言葉が飛び出した。あまりの出来事によく理解できな
い。
要するに呼吸困難になり、救急車を呼んだが来た時はすでに心肺停止、その後蘇生してい
ま近くの大学病院のI C Uに入っているというではないか!
昏睡状態で意識はなく、その後彼女の意識は戻ることはなかった。


その日から3日間ブリュッセル音楽院の卒業試験があり、最初の日に生徒がたくさん弾く
。次の日からは私の弟子は出ないので悪いけど緊急で日本に帰ることにする。
とはいうもののそう簡単には行かないご時世だ。P C R検査、飛行機・・・
そして例の隔離がある。
この際つてを通して働きかけてもらう。昨年7月母の危篤のおりも話をしてもらったが結
局検査結果出る前は動けず死に目には会えなかった。
今年は?


悶々としながらこのような例外も認められない(後述、時差と隔離)中3日間の待機場所
での隔離、アパ刑を終えて病院に駆けつけるとまるで眠っているだけの妹の姿があった。
最初脳幹が生きている見込みがあったが結局ダメで全脳死だという医者の説明を聞く。い
ったいなんのこと言っているんだ??気管切開をして酸素を送るシステム、その手術後だ
という・・・
それ以来、不要不急ならぬ最重要緊急の事態なので隔離中だったが毎日病院通いが始まっ
た。救急で状態が危ないということで一日15分の面会を二人まで許された事は他の病院
と比べてもマシだったという事。毎日寝ているもも子に愉気をする。これはなんといって
も真ちゃんの専門範囲だから私は邪魔しないように、でもなんとかコミュニュケーション
を取ろうと頑張った。


だんだん現実が身に染みてくる。もしこのまま生きていても目を覚ますことはあり得ない

友人たちが皆祈ってくれた。象さんに守られているというので象のぬいぐるみに祈ってく
れた。


症状が安定したとは要するに数値が安定した事で転院となった。今度は少し遠い。できた
ばかりの綺麗な病院で、ロビーはホテルかと見紛うばかりに蘭の鉢で飾られていた。到着
した日、やはり負担が多かったのだろう・・・妹はひどい顔してた。それに私たちは防護
服にマスクにシールド。ここまではなんとか我慢できてもその上に手袋!息ができない!
私も真ちゃんもヘトヘトだ・・


そのうちに子供たちもやってきた。本来なら夏休みに来るはずだったのだがコロナ騒ぎで
隔離期間2週間では遊ぶこともできない。「来なくていいよ。嫌な思いするだけだから」
と妹は言ってくれたが実は「会いたいなあ〜」と5月から言っていたのだ。かわいいかわ
いい姪っ子と甥っ子。生まれた時、いや、生まれる前からお世話になって「たんて、たん
て」となついていた。私の演奏旅行の間も子供の世話で一緒にきてくれたり、または実家
で母と一緒に見ていてくれたりした。だからこそできた事だ。左門は自宅出産だった。

の時お産婆さんと一緒に取り上げたのも彼女。最初から抱き方がちょっと違うと怒る左門
に付き合って夜中に廊下を歩いてくれたのも彼女。道子のゴッドマザーでもある。
しかし彼らも二十歳過ぎ、大学も終わる頃になれば自分の予定があり、その上コロナ騒ぎ
で母の葬儀にも来れず。結局2年近く会うことなく逝ってしまったわけだ。
子供達の「待機場所」アパ刑はなんとツインの部屋にソファまで入ってる?中で踊って見
せる彼らは久々の日本という事もあり嬉しそうだ。3日間が終わり、病院とも話がつき
、「滞在中に一度だけ面会できます」とお許しが出た。早速向かう。
自分の部屋から下ろされて面会場所のようなところでの対面が嫌だったのか?たんてもも
子は変な顔をしていた。道子も左門も絶句・・・というより2人しか入れなかったので私
たちは外で待機していた・・・泣いて出てきた彼らだが一様に「もう逝っていいよ。たん
て、ありがとう」


今となってはいつ、何日に何が起こったのかは忘れてしまった。東京滞在、近くをうろう
ろしながら週二日の面会15分のための生活となった。それでも私は子供達との東京滞在
が楽しくて、出かけた。民藝館、高尾山、演奏会が全て無くなりぽっかりあいた2ヶ月間
はまるでもも子がくれた至福の夏休みのよう・・・


そして7月12日。母の1周忌が終わった2日後の夜中「容態が急変しました」との電話
がかかり皆で出かけた。車中誰も何も話さない。病院に着くといつもの防護服、検査もな
くす〜っと2階に行って・・・そこには管を抜かれた彼女がいた。すぐにもうダメだとわ
かった。


朝陽が昇る中彼女は若葉町に帰ってきた。
飼い犬のムギがやってきてぺろぺろ舐める。「あそぼうよ!」とシーツをどかそうとする
姿を見て真ちゃんも泣きくづれる。


たくさんの方々がお別れに訪問してくださった。61歳という若さで逝ったことへの衝撃
も皆さん隠せない。何しろ私より若いのだ!
葬儀の前の日、島忠の屋上から夏には珍しく富士山が見えた。そして正善寺の墓と母のい
た国領の施設と富士山が1直線で結ばれたのを見て「あ、彼女はここに入りたいんだな」
と感じた。


その後半年経って納骨が一昨日今度は冬の晴天の日に行われた。
ヨーロッパの灰色の思い空とは打って変わった真っ青な空の中父と母と一緒におさまって
いる。
私は水際対策の過酷さに辟易して今回は断念した。帰国は仙台国際コンクール予備審査
videoを見るためでもあったがこれもオンラインでの参加を決めた。


前例のない5月までの長期ヨーロッパ滞在になる。家族がいて、住居があり、仕事もある
場所に「長期滞在」という言い方もおかしなものだが、実際試されている気がする。いつ
も信号のスイッチが青になったり赤になったり、ついたり消えたりするように2つの環境
の中で生きてきた。毎年4−5回、多い時は6回も行き来していたのだからそれが突然止ま
るのは私にとっては不自然な事だ。
妹がいなくなったということは61年間全ての思い出を分かち合ってきた証人がいなくなっ
たと言うこと。昔話も父や母の話もできない。思わず「あ!もも子に言わなきゃ!」と言
うおしゃべりもできない。

唯一音楽を通してなんだかコミュニュケーションができる。
病室でヴァイオリンを弾いた。その前の時に私が一人で耳元で歌を歌ったらなんとなく反
応があったような?
それで病院に話すと「では、小さな音で、少しだけ」と了解を得た。防護服にマスク、フ
ェースシールドはもちろん着用。手袋だけ外させてもらってバッハを弾いた。C durのフ
ーガを超微音で弾くのは難しいよ〜〜でもなんだか反応があった?と真ちゃんも言ってい
た。「プロの方ですか?お上手ですね」と看護師さんに言われた。


それが最後の面会になった・・・


葬儀でも弾いた。迷ったのだがまたC durのフーガ、これは彼女がザルツブルグ音楽院卒業
の時に弾いた。最優秀をもらった。とてもうまかった。そして悲しみのh moll
Sarabande….


今でも弾くと写真が微笑む時がある。
ブラームスの間奏曲で私が涙ぐむ時がある。
思えば彼女の付き添いでエリザベートもやれた。「最初に大きく呼吸して弾きだす」バッ
ハのアダージオの最初のCの音、「あんたいつも速すぎるから」と口すっぱくして言われ
た。昨年11月母の介護も終わり、私のバッハリサイタルの前に家で全曲を通していると、
恥ずかしそうに玄関に立って聞いていた。サントリーホールの時も楽屋にいた。バッハの
本番の前に誰かが声高におしゃべりしているので「うるさいなあ〜誰だ?」と思ったらも
も子だった・・・舞台に出る前にいつも袖で送ってくれた。


最後のおしゃべりは5月16日、庭でムギを遊ばせながら「ゆんただよ、ムギ、嬉しいね」
というのは彼女の心境も表していて私も嬉しかった。母の死後、改築について私が全てを
速攻のように進めた事で心を痛めていた。帰るたびに片付け5月には一緒に学生時代の資
料、写真などを見た。なぜか彼女の分だけ。「全て捨てていいよ」写真だけ残した。彼女
は衣類に渡るまでほとんど処分して逝った。自分で覚悟していたわけでもなく成り行きで
そうなったのだが、私への最後の言葉はこの速攻改築の衝撃を「許すよ」と言うものだっ
た。納得したと言った。いつもこうやって私の蛮行をハラハラしながら、あるいは叱咤激
励しながら見てくれた。


半年経って・・・なんだか心臓が痛い。
これから・・・
試練だ。   

                  
2021年12月末ブリュッセルにて
時差と隔離へ続く

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