Category 2019-2022

偶然が重なり最後の時を迎えた母と死に目には会えなかったけれど、コロナ陰性の結果が出たのでお葬式まで自宅に引き取って過ごせた私。

今1週間経ち主のいなくなった部屋の片づけになかなか手をつけられない。

母はもう3年ほど前から施設に入っていた。最後まで本当に皆さんによくしていただいた。

看取りをするという事は相当腹くくってかからないとできない事だと今回感じた。

決して楽な時ばかりではない。でも延命治療も管もつけないというのは本人の意思でもあり、また私達の希望でもあった。

だんだん浅くなる呼吸、喉だけ、そしてあがっていく息を前にして「なんとかしてあげたい」と思うのは当たり前だ。

でも彼女はあの世への旅立ちのためにその時をすごしている。苦しいわけでもない。見ている方の覚悟が必要だ。

妹は母との約束どおり「最後までつきあうよ」を実行した。大役を果たした。

私が最後にあったのは2月22日、ブリュッセルに出かける前の日、いつもより軽い気持ちで「じゃあまたね」と。当初の予定では4月頃顔を見に来るつもりだった。遅くても6月にはコンサートもあるので来ると。それがこの事態だ。

それでも全てのコンサートがなくなり「今年は23年ぶりのヨーロッパの夏か!」とうれしいような、また挑戦のような面持ちでロックダウン時期を過ごした。母の事はなんとなく2の次になっていたかもしれない。

飛行機もなかなかない。行っても死に目には会えない、自主隔離期間で葬式にも出られないではどうする事もできないではないか!

「一人で看取るよ」という妹の決心を良い事にぐずぐずしているうちに時は経ち・・・・

ロックダウンのたまものの「オンライン」で母と会った。嬉しそうだった。

起きたらスタッフの方と「ハイタッチ!」したという話を聞いて矢も楯もたまらず・・と言っても数日かかったのだが、機上の人となった。アムステルダムまでは旦那が運転してくれた。空港はブリュッセルより普通で、オランダ人はあまりマスクもしていない。ロックダウンも余り厳密でなかったオランダだが統計的にはベルギーとあまり変わりない。ベルギーの死者数が多いと恐れられたがあれは施設の死者をすべてcovid19のせいで、と書かせたものによる。救急隊員は最初に身分証明書の提示を求め75歳以上だと運ばなかったという事実もある。残酷だ、と批判が出たことも間違いない。しかし施設にいた老人が誰も知らない病院で白い壁だけを見て亡くなっていくのとどちらが幸せか?を考えた時救急隊員の究極の判断も納得いくものがある。実際covid19で亡くなった方たちには子供も会えなかったのだから。

7月5日の段階で看取りとなった母の施設ではそれまで許されなかった家族訪問が許された。妹夫婦はなんとベランダから防護服を着て部屋にはいる。部屋の向こうにつながる台所、階段、共有スペースには出ない。なるほど!この施設「かしわ園」は2月末から厳戒態勢をしいてコロナどころかインフルエンザ感染もなかったという話だ。働くスタッフたちの日常も束縛するに違いないのだが皆喜々としてそして自然に尽くしている姿には感動した。母の性格をよくわかっている、だから「ハイタッチ」なんてやるのだ!

最後まで意志がはっきりしていた母は「これいる?いらない?」の意思表示をした。病院に行かない、ここにいる、の判断も彼女。我々はそれを尊重しなるべく彼女のその時々の「快」を保つこと、ふつうに生活する事を最優先した。乾いた唇をぬらす。口の中のケアは亡くなる前日まで行われた。食べ物も水も取らなくなった彼女の口の中にときにはミルクティー、抹茶ミルク、あるいははちみつを塗った。最後に冷たくなってきた手に暖かいおしぼりを握らせたらにこっとした、それが彼女の最後の表情だったと妹が教えてくれた。

私達とのオンラインも亡くなる1時間前まで!分かったかどうかわからないけど私たちは遠くにいながらでも(私は車で5分の距離にいたのだが)お別れを言う事が出来たと思う。

その日初めて「今夜は泊ります」と少々不安げだった妹、しかし夜10時45分に逝った彼女のおかげで家に帰ってきた。

翌日医師の診断書を書いてもらい、施設を去る。それまでにお香台を設けてくれてスタッフの方々がお別れに来たという。「堀米さんはいつも私達に声をかけてくださった。『ありがとう』だけでなく、『頑張ってね』『あなたは何してるの?』『無理しないで』との声掛けに励まされた」という方も多かったという。最後玄関までは40名ほどの施設のスタッフ全員がお見送り、さすがに妹も泣き崩れて電話してきた。

さてコロナ陰性の私は引き取りも葬式に出席もかなう事になった。

マットレスを居間に運び母を待つ。

葬儀屋さんに抱かれてやってきた母の体はまだまだ柔らかい、家の中の曲がり角もなんなく通る。あっという間に立派な設置がなされる。花も届き始める。葬儀の説明を聞き打ち合わせ、ここからは忙しい時が続く。訪問してくださる昔の友達、近所の方々、有難い、昔話に話は尽きない。

私は「やっと帰ってきたね」と母との最期の時を持てた事に感謝するのみだ。

以前のように話しかけ、そばでヴァイオリンの練習をしてお線香をあげる。

ここ2年ほどミラノの船橋さんから教わってブリュッセルでも坐禅をしていた。活元運動はロックダウン中オンラインで行っていていまも続いている。

母の「普通に逝った」状態をいち早く分かち合った仲間でもある。

一日毎に表情が変わっていった気がする。最初は昔のようにとなりの部屋で寝ていた母のいびきが聞こえてきたり私が起きたときくしゃみをするのが聞こえたり・・の日常感覚がよみがえった。隣で久々に2時間以上もぶっつづけでヴァイオリンを練習したりした。勿論お顔の覆いは取って。

3日後かな?こちらもくたびれてきて・・時差もあるし、それでも練習!と。なぜならご葬儀でやはり弾こうと決めたからだ。父の時42年前も弾いたから母にも弾きたい。私が一番自分らしく送れる方法でもある。しかしながら喪主を務め、ずっと座っているあと突然弾く事の難しさも理解している。話はそれるが、シオン、テイボール・ヴァルガ・ジュニアコンクールの本選の折り、審査員がバッハドッペルコンチェルトの2楽章をファイナリストと弾く、という事があった。ギドン、私、チマチェンコ、ヴェルニコフの4人が次々と審査から抜け出し舞台に上がり彼らと弾くという技は心の準備だけではダメだ。ギドンが終わって私の隣に座って。「ごめん私の番」と弾きに行き、バッハのゆっくりした旋律をつつがなく弾く事の難しさ!

今回はそれと同じだ。

それで練習した!?

しかし3日目にじゃあ今日はシャコンヌ、と思ってお顔の覆いを取り弾きだしたら、クリアに「もういい」という声が聞こえてきたような気がする。「そうだよね。もういいね」と私も合点して止めた!

早く旅立たせてあげたい・・・

お葬式はこの大変な時期にもかかわらず70名もの方々が参列してくださった。中は密を避けて20名ほど着席、外にはテントを張っていただき椅子を離して並べる。いったいこれがちょうどという偶然も誰が仕掛けたんだ?

たくさんのきれいな花に囲まれ紫の額縁の写真の母は嬉しそうだ。昔から「お葬式は盛大にやってほしい」と言っていた希望がかなったじゃない?母の大好きだった方々に送られた。

妹たちによると母の魂は「何だろう?」と下に降りてきて、号泣していた妹の近くで暖かく「大丈夫だよ」と囲み、皆さんで花づくしのお棺を囲んでいる頃父がやってきて『さ、行こう』と手を取って登って行ったという。その方の鈍い私には見えなかったなあ~

フォーレのレクイエムと私のバッハのラルゴとそしてモーツアルトのAve Verum Corpusで送ってあげた。

あとになってフォーレのレクイエムは哀しみというより楽しみ、あの世への出発を一緒に喜んであげたい、という彼の思いがあったという。

92歳という大往生の彼女にふさわしい選択をしたなあ~と自負しているが、これもとにかくあちらの世界からの指示だったのだと思っている。

皆さまには生前のご厚情に厚く感謝します。

合掌

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