息子左門が昨日フィンランドに旅立った。エラスムスの短期留学だ。来年2月までロシア国境近くのラッペンランタ工科大学に行く。寒い冬に向かうので暖かいものと思う。この頃は留学の荷物を作って船便で送る・・ではなくスーツケース二つ持って。あとはネットで頼んでた・・・荷物もお姉ちゃんと友達に手伝ってもらって私は横で見てただけ!
着いて・・・湖が近くて夕焼けがきれいな写真が来た。
フィンランドの森と湖
まだまだ シャイなオーロラ
新しいクラスとピクニック(左門)
森と湖に囲まれたこの大学にはブラジル、ドイツ、パキスタン、あらゆる国の人がいるようだ。
なんとか頑張ってほしい。
4年前マストリヒトに独りで行った彼は3か月して「合わない」と帰ってきた。独り暮らしもまた大学の性格も、友達付き合いもあまりなく、落胆したようだ。次の年はブリュッセルの情報大学に行き、それも「合わない」とまた経済にもどり3回目の正直?だといいけどルーバン大学の英語版の学校に入りバッチェラー1をとり2年目、今年はフィンランドに行くという事だ。
何しろこちらの学校は入学金がいらない。授業料も年間10万程度。だからこんな贅沢な芸当ができる。学内の毎年の試験は厳しく落第は半分、追試ありの国がベルギー、なしがオランダ。2年続けて落ちた場合退学勧告、または3度目は自費となる。学校によって違うが年間100万ぐらいだろうか。
音楽大学も然り、EU、ヨーロッパ共同体の国の生徒達の授業料は10万ぐらいだが一度圏外となると100万、総額払わされる。アジア、南北アメリカなどがこの例にあたる。
ヨーロッパの大学ではボローニャ条約をいうものがありそれにのっとってバッチェラー、マスターの仕組みを各国で適応。バッチェラーとは大学生の事でマスターとは大学院と日本語では訳されている。卒業証書は一応どこの国でも通用する・・とは言ってもギリシャの音楽学校とパリやベルリンのレベルが一緒ではないので、例えばベルギーのコンセルバトリーの卒業証書でもフランスで働く場合はその「差」を埋める試験や勉強期間が義務付けられる。
元々紙上の判断がものを言うわけもない音楽家だが、昔から音楽家は馬鹿だ、教養がない、という前提から始まった「すべての授業を受けて試験を通れ」が至上命令となってきた。ヴァイオリンがいくらうまくても音楽史、哲学、その他いろいろの教養がないとダメというのは分かるけれど全ての人に通用するわけでもない。皆が皆大学に行ったから世の中良くなって人々が幸せになる??「ヴァイオリンを弾くという行為は頭がよくなくてはできません」と昔江藤俊哉先生が言っていらした。あらゆることを同時に考え、暗譜して、演奏する・・・しかしその頭の良さは前述したシステムには認められていないようだ。
またブレクジットの話題で大変な英国とEUの関係をみてもわかるようにヨーロッパの言語も文化も違う国を統合するというのはしょせん無理な話だ。元々対アメリカ、その当時日本を想定しての団結だったが今となってはその弊害も少なくない。かえって分断を生む?ヨーロッパの小さな国たちが大きな顔をしてみたところで無理がある。小さな魚たちが敵に立ち向かうために大きな魚のように一緒に泳ぐのとは違うのだから、これからは小国は小国のまとまりがあった方が幸せになる気がする。でも分断すれば隣との違いが気になる。気に障る・・・・とにかく戦争をしない事、これに尽きる。そのための共同体ならば是非続けなくちゃ。
エラスムスという元は人の名前、今は大学同士のエクスチェンジ、交換留学が流行っている。ヴァイオリンの世界だと3か月や半年来られても教える側も時間が限られているしむしろそれをきっかけに翌年クラスに入ってくるケースが多い。娘も息子もこの制度を使って道子は4年前にベルギーの費用で例えばその10倍かかるロンドンの美術大学に留学した。勿論衣食住はこちらもちなのでその時期は大変だった。今年は息子がフィンランドに行った。
とにかくヨーロッパでは「ヨーロッパ人」を作ろうという試みが多い。寂しい留学生活の折りに知り合ったガイコクの人と結婚するケース?それがこの政策の狙い?しかし実際は南米から、またはアジアからの学生も多いようだ。
長々とまたあっちこっち飛んで制度の話をしたが、要するにヨーロッパと日本の教育の制度の違いといえば大学に入ったら勉強する、という事かもしれない。子供の頃から一流大学を目指し、そのために良い高校を、中学を、いや小学校、はたまた幼稚園からダイレクトメールが送られてくる日本とは違って、ヨーロッパは最初はのんびりしてる。でも小学生から落第はある。わからないまま進むのはかわいそうだからだ。
息子など大学3回も変わってやっと少し勉強し始めたかな?今頃は夕陽のきれいな湖のほとりで新しい友達たちと語り合ってるのかな?3か月後には全て白くなるという、オーロラも見えるらしい!
22歳といえば私がエリザベートに出た年だ。
日本だけで教育を受け、フランス語はおろか英語もおぼつかなかった私に比べれば彼は語学にはほとんど支障がないだろう。一人でも友達ができればいいな、何しろ彼は友達と犬命だから!
私の場合言葉はできなかったけど、手に技術を持たせてもらった。日本の、桐朋の音楽教室からピアノ、ヴァイオリン、学科、和声、リトミック、すべて素晴らしいレベルだった教育を受けさせてもらった。
何を子供たちに身につけさせてあげられただろう・・・・本当に時のたつのは早く、あっという間にいなくなったものだ~
空はつながってるから・・・
とは施設に入った母の言葉だ。
今度はこっちが空を眺めて子供の事を想う年になった。気が付けば夫婦二人に犬一匹、こんな時間が来ることは想像しなかったなあ~
いつも出掛けるのは私なので昨日空港まで送りに来たラッキーも帰りがけ「あれ?まだいるの?」という顔して私を見ていた。
ひとりの時間ができるのは嬉しい。
ホテルではいつも一人だが日本の自宅で一人住んでいる時間も増えてきていた。これも流れだ。
おとといはブリュッセルでバッハソロのリサイタルだった。
この日も皆忙しく左門は最後の追試、パパはお母さんの眼医者に付き合う・・・私はごはん作って食べて荷物作ってヴァイオリンもって会場まで行く。会場にはたくさんの知人、友人が来てくれた。
バッハとの対話、というよりやはり「もはやあなたが存在しなくなってた」という言葉が一番うれしかったな。作曲家と聴衆の中継ぎ、音になりきる。
そのための時間をかける。たくさんはできないや~
空の巣はそういう事なのかな、と思っている。
2019年8月28日ブリュッセルにて
空の巣 ヨーロッパの教育制度
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