最初に白樺の林を見たのは確か81年頃乗ったアエロフロート、モスクワ空港だったと思う。寒いところに来てしまった・・という感じ。そのころはまだまだソビエト連邦の鉄の壁でパスポートを取り上げられてホテルに鍵をかけられて一泊するという・・・
早いとこ逃げるに限る、のような気持ちで飛行機に乗った。
モスクワ空港ではロシア製の食器を買ったりもした。今回その青色もまだあった。
チャイコフスキーのコンチェルトにもあまり縁がなかった私にとってロシア・・はどちらかと言えば遠い存在だった。70-80年代に多くの音楽家も亡命した。その中にはその後に親しくなった人もいる。ギドン、ミッシャ、ボリス・・・年々増えてくるロシアの友達、同僚に加え、気が付くと我がクラスにもサンクトペテルブルグ出身4代ヴァイオリニスト一家の生徒がいたりする。マストリヒトの生徒で仙台国際コンクールにも出場したグレゴリ・タダエフはオセット人、カフカース(コーカサス)の山が故郷だ。もう一人有名人がいる。ヴァレリー・ゲルギエフ。数年前に亡くなったイタリアのチェスキーナ洋子さんとは私もよく話をした。私の演奏会にもたくさん足を運んでくださった。ヴェニスのグランカナルにある邸宅に泊めていただいた事もある。彼女は晩年ゲルギエフの追っかけ?をやっていた。ある日ブリュッセルにゲルギエフのコンサートでやってきた。翌日ホテルに彼女を訪ねるとゲルギエフもいてなぜか一緒にお茶?途中チェスキーナさんは用事で出てしまい?楽譜を見たい様子だったゲルギエフの隣でし~んとしてお茶を飲んだ事がある。
ボリス・ベルキンとはここ数年だが本当に良い同僚で彼を聞きにサンクトペテルブルグまでやってきた。曲目はなんとブルッフのスコッチファンタジー!!私は父の影響で幼少時代からハイフェッツのレコードを擦り切れるほど聞き、のち練習し、録音もした曲でもある。ロンドンでの録音の際の楽譜が前回ハイフェッツが使ったものだったという背中がぞ~っとするような経験も持ついわば特別な存在の曲だ。そして敬愛する広上さんが指揮をするという。NHK交響楽団とのいきなりベートーベンコンチェルト共演、たくさん励まされ根っこが一緒の音楽つくりができたことか!また仙台国際のヴァイオリン部門を指揮していただいている。そんな偶然がなんと息子左門の23歳の誕生日の3日前にあるという。サンクトペテルブルグは彼の留学先のフィンランド・ラッペンランタから電車で3時間。こんな機会はないとオルガナイズしたのが今回の旅だ。
10月中日本なので9月中旬ビザの申請をする。我々で最後だというパスポートにスタンプのビザも2週間ほどで取れた。電子申請、電子ビザになったのは10月1日から。簡単になったようで例えば名前のスペルの点がないと飛行場で本国に追い返される?という今だに厳しい、きついロシアの国境コントロールだ。実際娘を訪ねてきた一家、おばあちゃんのミドルネームの最後の一字がなくてベルギーに送り返されたという話だ。
2004年私はアレクサンドロ・ドミトリーエフと共演した。サンクトペテルブルグ、ショスタコービッチホール。その時の空港からの印象は何とも汚く、まだまだ開発途上だったのだが今回はタクシーの運転手も英語を話す。街はあらゆる建物が立ち、西欧と変わらない。ホテルヨーロッパ・・・・ホールのすぐ隣にある古式ゆかしきホテルは昔の赴きのまま、たたずんでいた。細かいところにすぐ気づき、格式高く、居心地の良いホテル・・・広い部屋はエキストラベッドも気にならないほどだ。明日息子が来る。2か月振りに会う。
昔は「留学」と言えば何年も帰ってこられないものだった。今でも当時留学していた妹が別れの時ザルツブルグ空港で手を振っていた姿を思い出す。彼女は、いや用意をした家族我々も寒さも知らず、レインコートひとつで1月のザルツに飛んだのだ。79年の事だ。メールもなければファックスもない時代、送られてくる写真にやっと買ったというブーツの写真ばかりだったことも覚えている。彼女はそこでシャンドール・ヴェーグ先生に習い5年間住み着いた。おかげでドイツ語は完璧になった。今の留学生は何年いてもその国の言葉を話さないまま帰る例が多々あるが残念な事だ。グローバリゼーション?みなが英語を話す?しかしドイツに住めばドイツ語、フランスに住めばフランス語を極めてほしい。
妹、もも子が留学中日本に戻ったのは一度ぐらい?80年に私がエリザベートを取ったのでその後はよく行き来があり、そんな環境の中で私自身もヴェーグ先生のモーツアルト、バルトーク、バッハに出会い狂喜して学んだものだ。
さて2004年サンクトペテルブルグではモーツアルトの4番を弾いたのだがその時は会場中に散らばる髪の毛の色と顔つきの多様さにびっくりした事を覚えている。なんといってもロシアは広い!西から東までのあらゆる人種で構成されているのだ。雰囲気もなんとなく自由?圧倒された。
母たちもツアーを組んできてくれた。コンサートの切符をもらうのに迷路のような建物の中の道を通りその当時はユーロでもなかったのでまずルーブルへの交換がどこか奥の部屋でありまたもや迷路を通った。寒い国ではお店もギャラリーも2重扉の向こうのアーケードの事が多い。さすがに暖房対策は抜群で中は汗をかくほど!
翌日はエルミタージュ美術館を訪れた。日本語ガイド付きのツアーは彼女の話の面白かった事!1891年4月27日にニコライ皇太子遥か東洋、日本までやってきた事、大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう)はハバロフスク漂流してのち助けられサンクトペテルブルグでエカテリーナ皇女に面会している。また他の日本人も助けられのちには日本人学校までできたという。ガイドさんはそこで勉強したという流暢な日本語だった。
琥珀、黄金、緑の石の部屋・・・きらびやかなツアーリの時代を目の当たりにした。
しかし私はなんとなく一人で戦っていた・かもしれない。
今回ホテルに着く。
演奏会前は邪魔しては悪いだろうと主人とホテルで食事・・と思っていたところチェックインで会ったのはなんとグリーシャ!マストリヒトのベルキンの生徒。「まあ~何やってんの?」
「ちょうどマエストロベルキンとあなたたちの話をしてたところなんです。いつ来るのかなあ?と!」リハーサルを終えたボリスの声が聞こえてきてホテルロビーで再会。
「Junichiもくるから食べに行こう!」とボリス。
勿論ねがったりかなったりでグリーシャとボリスという二人のロシア人に連れられて街にでた。マイナス5度、さすがに寒い、11月初頭でこんな寒いとは思わなかったという広上さんは背広のみだ。大丈夫かなあ?
ネヴァ川を渡る時血の上の救世主教会(血の救世主教会、Храм Спаса на Крови、スパース・ナ・クラヴィー教会)がある。アレクサンドル2世が避難した場所でのちにアレクサンドル3世がモニュメント、教会を建てた。半分は覆われていたが美しい。
(グリーシャ、バート、私、広上さん、ボリス・ベルキン)
道の反対側にはカザン聖堂今ツアーリ達が眠っているという。
一寸行って地下にもぐり・・・我々では絶対に見つけられないようなレストラン。見れば時間はまだ4時なのだが昼抜きの私達にはちょうど良く日光の加減ももう夕方を過ぎている。マッシュルームのちょっと酢漬け。でウオットカをくいっとやれとボリス。ボルシチ、ピロシキ、ぺルメニ ロシア風餃子スープ?のちにジョージアレストランではこれが小籠包のようになっていた。
すっかり暖まり、またネヴァ川を渡ってホテル。蒼い空の色が美しい!これからが街がにぎわうんですとグリーシャ、しかし6時ごろだったけど「おやすみなさい」
日本からの時差もあった私は枕に頭を付けた途端にぐっすり!久しぶりの事だった。やっぱりみんなと会えてうれしかったのかもしれない。
翌日もリハーサルを聞き、食事、演奏会。ドキドキしながら席に着く。知っている人の演奏は怖い。ボリスも広上さんもフィルハーモニーも素晴らしかった!絹糸のような弦セクション、ハープの見事さ、管楽器のハーモニーの混ざり方、溶け込み方、彼らはちょっとおかしいと思うと音程でもメロディーでもさっとセクションで、二人で、練習する。この事こそがサンクトペテルブルグフィルハーモニーのトップたる姿勢なのだ。
ラッペンランタからバスで6時間かけてやってくるはずの息子の姿がなかなか見えない。今日は電車がない日だという。何しろロシアだし、無事たどり着き、置いておいたチケットを手に取れるのかなあ?休憩中パパは寒風の中外に出てみる。何しろ複雑なのだ。正面、横ドア、VIP口、楽屋口、私の生徒になるフェオドール、4代続きのヴァイオリニストと話していると後ろからとんとんと背中をたたかれ「左門!!」やってきた。「なんだか痩せたんじゃない?ちゃんと食べてる?」
息子と生徒もブリュッセルでの私の演奏会で会っている。
そういうわけで後半もスコッチ、メンデルスゾーンのスコットランド交響曲を楽しみました~~皆さんありがとう。
とここで11時なのだがこれからグリーシャの家へ来てくれという。ロシアでは家庭に招かれることが多いと聞くが初めてだ。
彼の故郷はオセテイアン、カフカースのTskhinvailだという。コーサカスといえばプロメテウスがゼウスに背いた罰で山に縛り付けられ毎晩肝臓を鷲に食べられるという拷問を受けたところ?彼は不死身なのでそれは3万年続いたという神話を子供の頃「へ~」と思いながら読んだ記憶がある山やまだろうか?
グリーシャのお父さんが乾杯の前にスピーチする。両親へ、祖先へ、そして子供たちへ、そのたびにグラスがいっぱいに満たされる。それを見張っていて注ぐのが若い男の子の役目というわけでグリーシャは忙しい。故郷で作ったウオットカ、弟の作った赤ワイン、美味しかった!そういえば昔サンデイエゴでジャンスク・カヒゼというジョージアン指揮者と一緒だったことがある。確か同じようにスコッチファンタジーだった。その食事時でも彼はいつもスピーチをしていた。彼によるとテーブルの周りの人たちが次々に話をする仕組みになっていて、それは長いものだと一人1時間もかかりそのために晩餐は7時間にも及ぶという。グリーシャも先週は村の結婚式と子供が生まれたのとで3日間の饗宴をしてきたところだ。
全てお母さんと妹さん、それに肉のマリネと煮込みは彼自身も昨晩3時までかかってやったという家庭料理に舌鼓を打つ。話をしているうちにオセット人とはペルシャ、イラン人とのかかわりがあり?そういえばなんとなく料理のどこかにトルコ食も見える。お父さんはプーシュキンの詩を朗読し、また英語ばかりかフランス語でマラルメの詩も暗唱、フランスに行った事もなければ、ここ数十年使った事もない言葉なのに発音も文章も完璧だ!さすがロシア教育制度のすばらしさ!彼らがサンクトペテルブルグに出てきた理由はただ一つ、子供たちに教育を。
というわけで色々な経過を経て今グリーシャはボリス・ベルキンのクラスにいる。
今後の成功を祈りたい。
私と広上さんはここで「一期一会」の話をしたのだがなかなかうまく訳せない。最後まであきらめずに戦うというよりは日本という天災の多い国での「あきらめ」の境地は理解が難しいかもしれないのだ。
10月に訪れた釜石で「私達は戦争なんてやっている余裕ありません。自然と戦う事だけで精一杯」と言っていた宝来館女将、岩崎さんの言葉を思い出す。
グリーシャも仙台コンクール中なんと温泉で地震に会い「ついに我々が狂ったか」と仲間と話していたそうだ。地が動く・・・事は想像できない事なのだ。
息子も話した。若者はクラシック音楽離れしている。それは間違いない事だけど今日の演奏は忘れられない感動を与えてくれた、と熱弁する。まだまだ続いて「我々はいつのまにか子供心を失ってなんでも同じ色に描きなんでも同じように考えるようになる。キリンは黄色、海は青ではなく、いくつになっても自分の眼で見た、感じた色を描きたい、感じたい・・」みたいなことを熱弁した。フィンランド教育にもよるのかな?それに完璧な英語にはびっくり!少しは成長したかとうれしくなった。
翌日、もう東京に帰るという広上さんとこれからまた違うコンチェルトをさらうと部屋に戻ったボリスを送り、我々はエルミタージュへ。ツアーを予約していたのだがグリーシャがいるなら?とキャンセルして道に繰り出す。なんといっても歴史的遺物にあふれているのだ。ネフスキー通りの建物が色分けされている。黄色ばかりのところ、エメラルドグリーンばかりのところ。聞いてみるとElena Khmelevskyaという人が20世紀中ごろに作ったという。彼女の恩師がMichael Matyshinで彼が作曲家リムスキーコルサコフやスクリアビンの音楽、特にハーモニーと色という事に大変影響を受けたという。美しい。
エルミタージュ広場前、オベリスク、当時の衣装の人たち、これは観光客向け。ツーリストシーズンではないのにそれでもちょっと並んで切符買って、さあ入場!
なんといっても広いので足の赴くまま・・やっていると1日では終わらない。それにそんなに集中力も体力も続くものではなく、数々の部屋、ロココ、バロック、ネオクラシック、調度品と金ぴかに目をむき、膨大な素晴らしい絵画、それも世界中のあらゆる時代のもの、を見て、エジプト、本当はこれからオセット文化、カフカース文化の方に行きたかったのだが別館にあるようだ。次回の事としよう。窓の外にはネヴァ川、冬は凍るという。そういえばスケートしている人たちの絵を以前見たことがある。フランドル派ピーター・ブリューゲルの作品もたくさんあった。レンブラント、ダ・ビンチ・・・・うわあ~~またこなきゃ!
ジョージアンレストランで食事、ちょっと味付けの違うボルシチ、玉ねぎの生を散らしているところが違い?小籠包のようなペルメニ。今度やってみよう!
ふとみると彼は今度は私の生徒フェオドールと連絡を取っている。マリンスキーのバレーを見に行きたいと言ったからだ。
少し休んで・・・
長身の彼がさっそうと黒革のコートに身を包んでホテルロビーに現れた!ラスプーチンみたい。家族3人と劇場へ。途中コンセルバトリーを通る。訪れたかったのだが今は閉まっているという。もう5年も修理中とはブリュッセルも顔負けの話なのだが、夜だし外からは真っ暗なビニールシートに覆われた建物しか見えず。このままいけば残念ながら閉館となるらしい。数々の歴史、名演奏家、作曲家達を出してきたインステイチューションが閉まってしまうとは何とも惜しい!グラズノフは作曲家として西側へという招聘を断ってサンクトペテルブルグコンセルバトリーのために尽くした。ショスタコービッチの家もそう遠くない。歩いているとここにショスタコ、ここはツルゲーネフの家・・・頭がくらくらする~~
マリンスキーバレーはフェオドールのおかげでかぶりつきの舞台袖で見る事が出来た。本当はクラシックにチャイコフスキーを見たかったけれど今日はやっていない。そういえば私もチャイコフスキーを弾くようになった。もう30年以上!!エフギニーオネーギン、くるみ割り人形、そして白鳥の湖!感情をわしづかみにされるロシア音楽も友達が増えると同時にどんどん身近になって行った。今回のはモダンバレーだったけどうまかったなあ~私は正直バレー鑑賞はあまり行った事がなく、まぢかではどれだけステップの音がうるさいだろうかと懸念したのだがなんのその~~エトワール、バレーの星たちのステップはなんと軽やかなことだろう。表情も動きもそばで見られた。それにオーケストラ!これらのオケが4つある?マリンスキーだけで1000人以上のミュージッシャンがいるというではないか。毎日毎晩サンクトペテルブルグのみならずシベリアの方、またゲルギエフの故郷カフカース地方にも出かけて演奏しているという。専用のシャワー付きホテル電車もあるとか。それでも6日間に10回というコンサートをこなす彼らのスタミナは一体どこからくるのだろう?
左門は全く偶然にエラスムス留学している友達と尋ねてきた友達と遭遇、インスタグラムのおかげなのだが、深夜に街に繰り出していった。
翌日、ロシア美術館に出かけた。朝出たので列もなく、今度は全てロシアの画家のものがイコン時代のギリシャ正教から始まり20世紀初頭までと分けられている。
びっくりした!
知らなかった。こんな素晴らしい作品がこんなたくさんあるなんて。IvanShinski, Ivan Kremoskoi,Silvester Schedrin,まだまだ数えきれないほど。どちらかと言えばフランス印象派、あるいはフランドル、イタリアとヨーロッパの絵画にはなじみがあったのだがそれ以前のロシア画家たちの色使い、暗さの表現、プロでない私でも相当のものだと感じた。活き活きしている。
最後は外に出てそのみんなが集っていた地下カフェへstray dogへ。1912年にオープンしたこの文化カフェで、夜を徹して語りあった人たち、画家、作家、音楽家・・・長い冬の夜の光景が目に浮かぶようだ。
ロシアを出る。観光、チケット、タクシーも何もかも本当によくやってくれて生徒達に感謝します。ありがとう。15年経ってなんだか一人じゃない気がした。ロシアが近くなった!
ロシアからフィンランドはまずそのパスポートコントロールから始まり、荷物検査、税関、電車だから止まらなくてよかったのだが実は左門は来る時4回もバスの外に出させられて、検査されたという。美男美女の警察官たちだが態度が厳しい。笑わない。
フィンランドの国境を越えた途端にインターネットも数倍早くなったと主人。私は寝ていたので知らなかった。
Koulovaという駅で乗換。暗い・・・かろうじてあったkiioskiでは兵隊さんがいっぱい。兵役制度があるらしい。
Lappennranta到着.
小さくて何もないよ、と謙遜気味の息子の話とはうらはらに道は大きく広い。ここがホテル?と思うような普通の建物に入ってすぐ街を散策。湖まで出る。フィンランド一大きいというこの湖も今は冬で閑散としている。何しろ暗い。でも雪は降っていなくてその上そんなに寒くない!?せっかくありったけのものもって来たのに!!
息子はマストリヒトに独りで住んだのが4年前。私も半分つられて??教え始めたけど彼は「合わない」と数か月で辞めてしまって・・・
その後2度目の独り立ち、と言ってもコット、学生用アパートには友達もたくさんいるようで隣のブラジル人に壁越しにノックして「起きてる?」みたいな?これだけでもいい。
翌日は彼の誕生日だ。23歳。自分が産んだ事もそのあとの子育ても大変だっただろうけどとっても良い思い出だ。最初の3-4年間は自信あるけどそのあとの教育も手に職も音楽会に連れて行く事も何もしてあげられなかったけど、感情豊かな人にはなったかな?
さて彼の誕生日に何をしたものか?
みんなでまず大学見学。何しろバスは1時間に1本しかないので時間を見て家を出る。今日は本当に暖かいとコートのボタンを閉じようともしない左門。2℃だ。
大学は半島の先端のようなところにあり、サイマー湖に面している。昨日訪れた湖と同じだがこれはフィンランド一大きいという。島が点在している。キャンパスは大きすぎず、小さくもなく・・・兎に角外国人が半分以上。また彼らは日の光のない生活には慣れていないので大学、図書館は24時間空いている。いわばミーテイングポイント、一人で鬱にならないでね、という事もあるらしい・・・きれいな建物。いたるところにスタイリッシュな色々な椅子がおいてある。私の一番はこれ、外を向いてるひとり掛けのいす・・・(写真いす)一人になるなという割には一人になるためのような背の高い個人の椅子が多い。また夏のブログに書いたようにキャスター付きのテーブル椅子は教室の中どこにでも行ける。いったいどんな先生が何を教えているのだろうと思った。
音楽学校に慣れている私には日曜日という事もあり全く音のしないキャンパスは珍しい。
昔ゼルキン先生がやっていらしたInstitute for young musician というものがマルボロ近く、先生のご自宅近くのブラッテルボロにあった。そこは数人、ある時は一人で閉じこもり練習、蓄積していく場所だったがなんとなく似ている。
白樺に囲まれた湖のほとりを歩く。本来ならば氷が張り、しばらくするとその上を運転できるぐらいの厚さになり?スケートして学校に行けるという・・・湖は私にとっては閉塞感があり、特に山の間のものは怖い。しかしここは水があるおかげで開けている感じがした。
またバスを待って・・・スーパーマーケットに行く。せっかくの彼の誕生日だ。少しは料理でもしようと思った。
鳥の丸焼き・・のはずがなかったのでもう分けてあるもの一杯買って、マッシュルームリゾット。パルメザン、トマト、ニンジンにサツマイモに・・薬膳も何点か・・・友達呼んだら?
3時半帰宅。もう暗い・・・小さな台所で料理を始める。旦那も含め男ども(私も?)はもう飲み始めだんだん友達がやってくる。数人と思いきやついには14人!
車中白樺林が続く。
白樺はまっすぐ気高く北国に立つ。
白樺派という言葉もあったなあ~
コーカサス、ロシアの歴史、絵画、作家、そして音楽・・・・
思えばプロコフィエフの2番のコンチェルトを江藤先生に習ったのが77年頃。ロシアの大地のように、と第2テーマの弾き方、音の出し方を教わった。20年経って取り出したその曲はあたかもレッスンがきのうだったかのように詳細にわたって甦った。
40年経った今、またプロコの2番に戻った時、印象は現実味を帯び、ますます身体にしみ込んで説得力を増した。
実は昔から知っていたかもしれないロシア・・なのかもしれない。
人間の輪が一人ずつ拡がって15年前とは違う旅になりました。
子供たちの成長・・・かけがえのない嬉しさ、安堵感ともいうべきものかな?
電車に乗ったら左門からメッセージが来た。
感動的・・・だけどこれは内緒!
そういうわけでブリュッセルも紅葉美しく、明日からまたレッスンです。
今度は12月に細川俊夫さんの「呪文」を弾きます。
また仕込みます。
2019年11月13日ブリュッセルにて