エトバシュとバルトークのオペラを聴いて
おととい、昨日と普段はほとんど行かないコンサートに行った。一日教えていてまた夜音楽を聴くのもしんどい・・・出不精?
しかしエトバシュとバルトークとは!ソロソナタをやっている時は心中してもよいくらい好きなバルトーク、そして昔知り合いで素晴らしい音楽家のペーターエトバシュのオペラ?ソルドアウトの呼び声高い席がこれまた40年来の友人、コンクール以前からのブリュッセルの知り合い、西本啓子さんに「チケット一枚あるよ。来る?」と言われた!
マストリヒト帰り、少し家で休んで・・・
フラジェーの客席に座る。
最初にナレーターが3か国語で解説を始める。3か国語と言っても全て訳すのではなくスイッチしながら話しを進めていくので実は3つの言語が理解できないと、途中抜けることになる。フランス語、英語、オランダ語、なんとかすべて把握。オペラの物語の筋が明らかになった。老眼も進み、暗い会場で解説書を読むよりもこうやって解説してくれると助かる。
エトバシュのオペラは [Senza Songue]、血はなしで・・アレッサンドロ・バリコの小説による。戦争時代拷問技術を開発していた医者を殺しに3人の兵隊がやってくる。夫婦を殺した後一人が戸棚を開けると4歳の女の子が隠れていた。しかし当時20歳の若き兵隊は銃口を当てたものの引き金はひかず。「誰もいない」と後にする。
60年以上の歳月が過ぎ・・・この娘「ニーナ」と若き兵隊が再会する。
オペラは劇場で切符売りをしていた老兵のところへ彼女が「チケットを買いたいの」と来るところから始まる。
幸運な事に字幕が舞台上方に出る。オランダ語とフランス語、歌詞はよく聞くとイタリア語だ!Voglio comprare un biglietto
私の中で語学として一番最近のイタリア語を聞き、フランス語で字幕を追う。
後日ブリュージュではオランダ語のみだったのでこれはかなり頭の体操になったが、どうも脳の中では順序、秩序が保たれているようで一番最近習った言葉が出てくる。イタリア語を話していた時オランダ語が出てきて仕方がなかったのがそのよい例だ。
どれだけ拷問話や銃撃戦が出てくるのかと想像する。これも余りに子供たちのテレビゲームやテレビシリーズの推理ものも見すぎかもしれないがそういう事ではないようで安心する。
会話は「切符買いたいの」から始まって「ちょっと一杯付き合ってよ」という彼女に「
持ち場は離れられません」という老兵、まだ彼は誰が訪ねてきたかは分かっていない。
それでも強引に彼女に誘われ「静かなカフェ」に移動する。飲み物を前に彼は気づき「ついにこの日がやってきた」と己の運命を知る。
彼女の人生は4歳のあの時以来「ニーナ」とはおさらば。名前を変え、孤児院に入れられ、ある時「私はあなたのお父さんを知っている」という人が現れ、その後14歳で結婚。しかしその後誰もが彼女を恐れるようになる・・・・だれかを歳月かけて毒殺したという噂もある彼女。
「私の事をもっと教えて」と詰問する彼女。口調はだんだんきつくなりどうやって、だれが自分の両親を殺していったか・・を目の当たりに見た彼女の回想がはじまる「あなたたちはまるで動物のようにパパを殺していった」
し~んとする間のあとに兵隊は「我々は兵士だった」
「でも戦争は終わってた」
「我々にとっては終わっていなかった」
・・・・・
「さあ~やる事やって、しかし我が身に平和をもたらしてくれ」
あの時以来片時も忘れたことのなかった彼は懇願する。
「あなたの名前は?」
Pedro Cantos
ペードロ、カントス・・・・
私の名前はね~~
「ニーナ」
ここで歌詞はおしまい。そのあとオーケストラの大トウッテイがしばらく続き幕となる。今回は演奏会形式だったので二人の歌手が立って歌った。
さて、殺人は行われたのか?
銃声の音ひとつ聞く事なく、私達は色々考えをはりめぐらす。
エトバシュの出だしの音から素晴らしい透明感と統一感を聞かせてくれたブリュッセル・フィルハーモニック、心からのBravissimi!!
バルトークの音は音楽的じゃない人たちが弾くとただただ攻撃的でアグレッシブ、汚い・・とまで言うところまで来る。しかし実は和声の上の透明感、遊び心、ノスタルジ~なんといっても日本の民謡と本当によく似ているのだから!
休憩をはさんでのバルトークの「青ひげ公の館」恥ずかしながら実はこれも実演を聞くのは初めてなのだが難解なものだと思っていた。
しかし上の解説を見る。今度はハンガリー語なので残念ながらわからず。青ひげKékszakállú(キークス(青)ザカール)を何度聞いても覚えられないのはもどかしい・・・
しかしブリュッセル・フラジェー会場ではオランダ語とフランス語と両方の字幕が出たので助かった~~
二日目のブルージュでは前述したようにオランダ語のみだったのでなんとか昨日学習したフランス語を思い出し、またなんとか半分は意味が分かるオランダ語の字幕を追ったものだ。
バルトークの出だしは「懐かしい」感じがした。
それに浸っているとだんだん出てくる不協和音、これで西洋和声の世界になっていく。花嫁を連れて自分の城に向かうという青ひげ公Kékszakállúの内面を表す。聞くところによればこの題材はオトコの内面、女性への想像を表すかなり深い精神的題材だとか・・・それをハーモニー、色合い、もちろん構成力、展開で表すバルトークの力量には今更ながら腰を抜かす。私は生まれたときからバルトークを聞いていた。父が生後すぐ聞かせたのが「こどものために」というピアノ曲。今でもボロボロになった楽譜がある。シベリウスのレコードの表紙、そしてバルトークの音楽は当たり前のように私の中にあり、ソロソナタを練習しているときは最初に書いたように至福の時を持つ事ができる。
なんというか信頼できる、安心できる人なのだ。
バルトークさん、
そしてそれを見事に再現してくれたペーターと歌手の人たち。ありがとう。
いやあ~すごかったなあ~~メゾソプラノのViktoria Vizin,ハンガリー出身、今はアメリカポートランドオペラにいるという。彼女の声のすばらしさ、というのは声量もさることながら緩急自在なソステヌート、粘りがある。ず~っと動かずに立っているの(オペラ演奏会形式だった)のが大変だった、と後から言っていたがなんといっても顔の表情一つで我々を世界に引き込んでしまう。またまた話が私事になるが1980年エリザベートコンクールに行く前にモーツアルトのアダジオとロンドを仕込んでいた。どうしても短調の暗さが出せず・・その時たまたまみたシャシュ・シルビアの歌い方を真似した。彼女からはいろいろ盗みショーソンの詩曲の中にも取り入れさせてもらった。抜くところと劇的クレッシェンドのやり方?感謝です。
ヴィクトリアは最初喜々として嬉しそうに光のような花嫁を演じる。「まあ、窓もないお城?私が光を通します」と7つの部屋の鍵を要求する。しぶしぶ渡す青ひげ公。ドアを開けるたびに感激する彼女、ユデイット。5つ目の扉までは「世界は我がもの、だってあなたを愛しているから」と高らかに歌う。・・・しかし・・・
どのドアのあとにも一言「血のようだ」とささやく・・・ダイヤモンドの冠も武器庫の壁も武器も花園の人の丈ほどあるユリの花も「血」のあとがある・・・空の雲の影が赤い・・・
「もういい加減にしてこっちへおいで。キスさせてくれ」
とイライラしてくる青ひげ公に「あと二つのドアも開けて」
「やめておいた方がいい」
しかしもちろんそんな忠告は聞き入れず6つ目のドアを開けると?
そこには銀色に光る川が流れている・・・・「この水はどこから来たの?」と問う彼女に青ひげ公は「涙、涙・・・」
さすがに拷問部屋、武器庫、宝飾部屋、花園、帝国(empire)の全てを見てきた彼女も「?」
この帝国を見せる時の音楽の盛り上がり方が素晴らしい。C-durの主音ドミソがオルガン付きで高らかになる!鳥肌が立った。
6番目の涙。「これ以上質問するな、さあこっちへおいで」の声もむなしく7番目のドアを開けようとする。しかしだんだん彼女も何か感じてきた。「あなた私の前に愛した女性はいるの?」「その人きれいだった?」
はてさて7番目の部屋には昔の妻たちが・・・
ここでやっと青ひげ公独白が始まる。
「1番目の妻には朝出会った」「私よりきれい?」
「2番目には燃え盛る昼に会った」「私よりきれい?」
「3番目は夕方に、・・彼女たちが花に水をやり宝石で身を飾り、帝国の雲をあやつり」
「もうやめて!!」
「4番目はすべての夜を、君が一番美しい!!」
夜・・
これでおしまい。
さて彼女は殺されたのか?以前の妻たちは生きてるのか、死んでるのか??
最初に書いた男の中の女性願望がこの物語の背景にあるという。
帰りの車中ではこの話で持ち切りになった。この企画で初めてプロのオケのトラをさせてもらったという幸運な生徒ジョアナとゾルタン、彼はハンガリー人でペーターエトバシュが生まれたトランシルバニア、ルーマニアの村から50キロと離れていない場所で生まれたという。偶然とは面白いものだ。
彼らとバート運転、4人で物語の結末を想像しながら帰ってきた。
本物の音楽家に会うと実にうれしい。
彼らは無邪気で真摯で普通なのにいざ音楽をやると変貌する。
以前樹木希林さんが黒木華さんをほめて「普段普通の人、役に着くと豹変、これが才能」と言っていたけれど音楽家も然り。
ペーターは30年ぶりぐらいに会った。以前彼の元でピアニストの奥さんと一緒にフランクのソナタをコーチしてもらった思い出がある。忙しかった彼も「時間ある?」というと「I make time」と言ったものだ。その時の2楽章のコーダのもっていきかたはいまでも実行している!とても自然、でもその通り!!そこに至るまでの和声の涼やかさ・・・
「難しいものはやさしく・・・」井上ひさしさんの言葉だ。
そして今朝、まだ余韻にひたっている。
パソコンが多い昨今、何でも「今」ですぐ消えてしまって「余韻」という言葉もあまり使わなくなった気がする。と同時に想像する事の愉しさが減ってきているのではないか?
音楽も劇もそんな一瞬を物語にして時を忘れる。昨日の晩は終演11時近い、という事は2時間半以上の音楽を聴いて飽きなかったのは久しぶりだ。2度同じ演奏会に行く事もほとんどないのだが行って良かった。前日とはまた全然違う歌いっぷり、テンポの作り方があり、一段とコンパクト、手に入ったような印象を持った。さすがにみんなが一流の音楽家だとこういう「遊び」ができるなあ~刺激が良い具合にあり、私は二日目「なぜだろう?」と自問してみた。ひとつは音の粘りだと思う。声、弓で出す音が続いていく事。それをだらけさせずにテンポをもって行く事、もちろんどこで持っていくか、どう持っていくかが曲を把握している指揮者の力、あるいは歌手の力なのだが、オーケストラも見事にこたえていた。
昔シャンドール・ベーグ指揮というより指導のカメラータアカデミカザルツブルグの練習をよく見に行った。妹が弾いていた。
彼の曲作りにどれだけ教えられたことか!良く言ってた「感じなさい!!」合わせる、音程が正しい、だけではないのだ「感じなさい!!」
思えば彼もハンガリー人!
縁は続く。
2019年10月6日ブリュッセルにて