ヴァイオリン製作者の松下敏幸さんが楽器の調整と弓の毛替えのためにわざわざクレモナからブリュッセルに来てくださった。私もさることながら生徒達もヲルフ(G線上で音が鳴りにくいところ)をとったり、指板(指を押さえる黒い部分、黒檀)を削ってなめらかにしたりしてもらった。どうしてもたくさん弾いているうちにあるところだけがおさえられ指板が波うつようになってしまうのだ。またカーヴが平らになり移弦、隣の弦に移る作業がスムーズにできにくくなったりする。数回削っていくと今度は薄くなりすぎて交換という事になる。弾き具合にもよるけど10年に一度ぐらいかな?
二日間ではできる事も限られているがなんといっても松下さんの真骨頂は魂柱をこんこんとたたいて音響調整をすることだ。ほんの少し斜めにする、場所を変える。一ミリもいかないそのやり方が限りなくあるという事。一つの場所で前後左右斜め8角形の方向に8回、それが各0.数ミリ動かす度にどの弦のどの音に変化が起こり、響きが良くなるかのキーポイントがあるという。魂柱を動かせる人は多くいるけど、演奏家の前で魂柱を動かせる人は全く無知な人か、大変勇気のある人だと松下さん。なぜならばそれほどに一度動かすと音に変化が起きて、二度と元の音に戻らなくなる。楽器の構造を理解して動かさないと、音は最悪の状態にもなりうるからだ。彼にかかると出にくかった音も出やすくなったり、音の響きが華やかになったり、また逆に落ち着いたりするのだ。我々が苦労して音を作っている事を魔法のようにあっという間にやる技術は世界でも数人だと思う。今までなんとなく鳴りにくかった楽器がまるで整体をしたように歪みが取れていく。その過程を見るのはとても面白い。以前私は色々楽器屋さんに行っているうちにどうにもうまく調整できず、というかうまく言葉でどうしてほしいか伝えられず、えい自分でやった方がはやいわい!と全て弾きながら調整していた。江藤先生も「自分でいい音出していると自然に魂柱動きますよ」と言っておられたので忠実にそれを遂行していた。乾燥しすぎる時には楽器の中にゴムでできた管の中にガーゼを入れ込んである蛇のようなものを湿らせF字抗から入れる。このくらいは自分で出来る。しかし例えば梅雨時に楽器が湿気ではがれる時膠を入れてくっつけてもらう、あるいは指板の交換、などは楽器屋さんにやっていただいた。
音響調整で魂柱を触るというのはとてもデリケートな仕事だ。それに疑い深い私はなかなか人を信用できず20年近く誰にも触らせなかった経緯もある!数年前だまされたつもりで松下さんにやってもらった。弾きにくかったD線細部がなんと楽に弾けるようになったことか!音の立ちが良い。ともすれば渋い音になりがちな私と私の楽器をイタリアの明るさを取り戻したように調整していく。数日かかって落ち着くとなんとも渋さと華やかさ、太さと繊細さを両方持ち合わせたようになるのだ!ケンブリッジにもイタリアマスタークラスにもまた先回の仙台国際音楽コンクールの時にもいらした。なんと優勝したチャン・ユジンは本選弾く直前に調整してもらったというではないか。普通ならば音が変わってしまう事に及び腰になったりまたはそのような時間は作らないものだが。それで彼女はあのストラビンスキーを切れ味良く弾いたのか!とあとでわかった話だ。
いろいろ話もした。
稲田さんという友人でフレンチのシェフと私3人。食事をとりながら皆ものつくり、技術やという我々はほぼ同年代でかつ大体同じ時期にヨーロッパにやってきた。その後皆国際結婚をした。今や皆さん店を構え、アトリエを構え、私もそれなりにこちらの生活が基盤になっている中、話はつきない。
料理をする際、釣った魚一つ一つ違う処理をすることは以前稲田さんと浅草の世界一美味しい寿司や、松波さんに聞いた事がある。鱸は釣ったらすぐに背骨の中の骨髄の血を金属の長針をとおしてで抜くという・・・その後の鮮度がまるで違うと。マグロはどのくらい置くかで味がちがうし、サバのしめかた、塩具合、すぐあい・・・企業秘密を聞いているようだ。
そして楽器の話になった。
松下さんはヴァイオリンを作る木を北イタリアの森に見に行くという。切る数年前の話だ。昔は切った木を川で流しその後河口につけておいた。こうやるとカビがつかないのだという。
しかし今は伐採後トラック輸送、だからまずは制作前に虫の処理からしなくてはいけないそうだ。この会話はクレモナ産のサラミのお土産を前にその皮、カビがついているかもしれないサラミの皮を最初にむくか向かないか・・・から始まった。
なるほど!そういえば川を流れる材木の姿は見なくなった。もっとも私自身そんなにたくさん森に入るわけではないのだが!
そして伐採の時期はいつか?
春、いまあらゆるところで伐採している。道にはみだした木。高いところに登って枝を払っている姿も見受ける。
では伐採は春に?と思うとこれ違うのだ。
伐採は木が一番静かにしている冬、そして潮の満ち引きと関係あるので新月、満月の晩は避けるのだそうだ。
し~んとした真っ暗な晩に切る・・・そうするとその後の「ずれ」が少ない。
また私達が200年、300年経っても使っているクレモナの名器、ストラディヴァリウス、グゥアルネリを代表するヴァイオリンのその寸法はなんと「クレモナ寸法」という当時のクレモナ人の身長とその腕の長さ、ちょうどヴァイオリンを持つときにちょっと曲がる腕の寸法を基準にして作られたというではないか!35,4センチという現代の測り方ではなかったという。
目からうろこ。
確かに職人さんたちの使う一寸二寸、また日本の着物丈は膝から床までを基準にできた寸法から成り立つ。
ヴァイオリンも同じこと。
当時のクレモナ人の身長は小さかったという。
それで私達日本人にも合う寸法なのかもしれない。
もうすぐ仙台国際音楽コンクールだ。
2回目から審査員をやり先回からは審査委員長を務めている。大震災後も迷わず続けられた仙台市にはなんと感謝の念を表してよいかわからない。
ありがとうございます。
クレモナから300年・・・綿々と続くこのヴァイオリンの流れを若い子たちの演奏で聞く3年に一度の機会。
今から楽しみにしている。
2019年3月31日ブリュッセルにて
クレモナのヴァイオリンの話
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