妹,もも子の死 5月31日の朝の事だった。いつもラインでおしゃべりしている妹から着信通信があった。あれ?何かあったかな?と思いつつ電話をすると旦那、金子真一さん、通称真ちゃんが電話に出た。なんだか嫌な予感がする。また妹は腰が痛くなって動けない、とかお腹が痛くて夜中大変だったとか?話を聞くうちに「心肺停止」という言葉が飛び出した。あまりの出来事によく理解できない。要するに呼吸困難になり、救急車を呼んだが来た時はすでに心肺停止、その後蘇生していま近くの大学病院のI C Uに入っているというではないか!昏睡状態で意識はなく、その後彼女の意識は戻ることはなかった。 その日から3日間ブリュッセル音楽院の卒業試験があり、最初の日に生徒がたくさん弾く。次の日からは私の弟子は出ないので悪いけど緊急で日本に帰ることにする。とはいうもののそう簡単には行かないご時世だ。P C R検査、飛行機・・・そして例の隔離がある。この際つてを通して働きかけてもらう。昨年7月母の危篤のおりも話をしてもらったが結局検査結果出る前は動けず死に目には会えなかった。今年は? 悶々としながらこのような例外も認められない(後述、時差と隔離)中3日間の待機場所での隔離、アパ刑を終えて病院に駆けつけるとまるで眠っているだけの妹の姿があった。最初脳幹が生きている見込みがあったが結局ダメで全脳死だという医者の説明を聞く。いったいなんのこと言っているんだ??気管切開をして酸素を送るシステム、その手術後だという・・・それ以来、不要不急ならぬ最重要緊急の事態なので隔離中だったが毎日病院通いが始まった。救急で状態が危ないということで一日15分の面会を二人まで許された事は他の病院と比べてもマシだったという事。毎日寝ているもも子に愉気をする。これはなんといっても真ちゃんの専門範囲だから私は邪魔しないように、でもなんとかコミュニュケーションを取ろうと頑張った。 だんだん現実が身に染みてくる。もしこのまま生きていても目を覚ますことはあり得ない。友人たちが皆祈ってくれた。象さんに守られているというので象のぬいぐるみに祈ってくれた。 症状が安定したとは要するに数値が安定した事で転院となった。今度は少し遠い。できたばかりの綺麗な病院で、ロビーはホテルかと見紛うばかりに蘭の鉢で飾られていた。到着した日、やはり負担が多かったのだろう・・・妹はひどい顔してた。それに私たちは防護服にマスクにシールド。ここまではなんとか我慢できてもその上に手袋!息ができない!私も真ちゃんもヘトヘトだ・・ そのうちに子供たちもやってきた。本来なら夏休みに来るはずだったのだがコロナ騒ぎで隔離期間2週間では遊ぶこともできない。「来なくていいよ。嫌な思いするだけだから」と妹は言ってくれたが実は「会いたいなあ〜」と5月から言っていたのだ。かわいいかわいい姪っ子と甥っ子。生まれた時、いや、生まれる前からお世話になって「たんて、たんて」となついていた。私の演奏旅行の間も子供の世話で一緒にきてくれたり、または実家で母と一緒に見ていてくれたりした。だからこそできた事だ。左門は自宅出産だった。 の時お産婆さんと一緒に取り上げたのも彼女。最初から抱き方がちょっと違うと怒る左門に付き合って夜中に廊下を歩いてくれたのも彼女。道子のゴッドマザーでもある。しかし彼らも二十歳過ぎ、大学も終わる頃になれば自分の予定があり、その上コロナ騒ぎで母の葬儀にも来れず。結局2年近く会うことなく逝ってしまったわけだ。子供達の「待機場所」アパ刑はなんとツインの部屋にソファまで入ってる?中で踊って見せる彼らは久々の日本という事もあり嬉しそうだ。3日間が終わり、病院とも話がつき、「滞在中に一度だけ面会できます」とお許しが出た。早速向かう。自分の部屋から下ろされて面会場所のようなところでの対面が嫌だったのか?たんてもも子は変な顔をしていた。道子も左門も絶句・・・というより2人しか入れなかったので私たちは外で待機していた・・・泣いて出てきた彼らだが一様に「もう逝っていいよ。たんて、ありがとう」 今となってはいつ、何日に何が起こったのかは忘れてしまった。東京滞在、近くをうろうろしながら週二日の面会15分のための生活となった。それでも私は子供達との東京滞在が楽しくて、出かけた。民藝館、高尾山、演奏会が全て無くなりぽっかりあいた2ヶ月間はまるでもも子がくれた至福の夏休みのよう・・・ そして7月12日。母の1周忌が終わった2日後の夜中「容態が急変しました」との電話がかかり皆で出かけた。車中誰も何も話さない。病院に着くといつもの防護服、検査もなくす〜っと2階に行って・・・そこには管を抜かれた彼女がいた。すぐにもうダメだとわかった。 朝陽が昇る中彼女は若葉町に帰ってきた。飼い犬のムギがやってきてぺろぺろ舐める。「あそぼうよ!」とシーツをどかそうとする姿を見て真ちゃんも泣きくづれる。...